среда, 25. фебруар 2015.

ガラスの家 - タチアナ デベリャスキー

KUĆA OD STAKLA  
ガラスの家
A HOUSE MADE OF GLASS
New book Tatjana Debeljački  
タチアナ デベリャスキー
Serbian Japanese and English



ガラスの家

ガラスでできた家
そこで与えられる最後の演技
最後の役割
掛け値のない役割
恋人たちよ、愛撫しつつ
飛んでゆけ、飛んで
長く、長くあなたたちの沈黙に耐えよ
夜の闇で、少なくとも一つの星はあなたがたのもの。





Ilustracije / Artwork / イラスト
Dragoljub Djuričić



Critic/ 講評

因習に抗う

(テベリャスキー ガラスの家)

 
題名は表表紙と裏表紙の間に所収されたありのままの姿や真の同一体と関係しているとは限らないが、常に、あるいはほとんど常に作家の意図や使命を顕在する小径を強調する。ターニャ・テベリャスキーの詩集「ガラスの家」の詩は、因習的な主旋律のなかの詩人の誠実さと倫理-美学的義務での真実とともに「視界と反射の家」を構築している。
 人はガラスを通して見ることができる、でも同様に自分自身の反射を見ることができる。自分の前および他人の前の空間を同時に二倍にする鏡のように。このように「ガラスの家」は特別な視界を呈する。この詩の「実在の人々」のように、精神界を知覚する望遠鏡、また人々や物、感情や時や永遠、生や死が同時進行であるところの「温室」なのだ。
 詩の相当な数のなかで、詩の紋章や支配のレベル上、人間疎外の思想や経験、その習慣、先入観や厳しい制度上の方法が良心をもっての世界の受容、最多の基本的欲求、原初の衝動と衝突することが示唆される。同時に、よきロマン主義者のごとく、ターニャ・テベリャスキーについては、美は死にたいする抵抗の方法なのだ。
 しかし、それは審美的なカテゴリーとしてのこの詩にではなく希望と感情として存在する。特殊な事情に構築されるそれだけがその瞬間より長く続くことが可能だ。
 「命の悲劇の感覚」に切迫していることだけが、真実に肉薄できる。詩「素顔」の中で、素顔の感情として、一つの、必須の、そして信頼と愛の結果、愛は意味の行き止まりに変容する。同じ詩では、我々は、絵印の等級から相互の推移の本質的な非決意可能性女流詩人たちはそれを主張するようだが)を認める。概念、抽象および様々な認識の展望〔世界はそれによって現れるからダイナミックな変化での現実的な等級へ、そしてまた単一の詩の表象へ、までその関係の範囲で荘厳、聖礼、冒瀆的で一般化された概念の範囲の境界で働く。錯覚の反対私はかけることのなかを見ている/しかし、それを探すときに持っている、より深く明確にすること、全体中の詩の基礎的な詩の原理、広い思考、地平線の形成、異常なもの、およびその後ろに置かれたオリジナルを明らかにするためにその固定範囲を貶めて主題をしばしば超えてしまう。因習、および予期された因果の果てに固定したステレオタイプを越えて。
 したがって、一つの正面側だけがあるのだ。そしてターニャ・デベルジャスキーが探索する多くの背後側、固執するほどの長い時間で、また彼女はもっとも成功した詩集、詩に見出している。彼女の内省は、精神の地図上の原因およびその射出をより深く知覚する必要だけでなく彼女自身なのだ。ものと目に見えない、ならびに社会規則のあわいの条件を
すべて知覚したい、また接近および経験最悪の事態は、内部でいつ消えるかの精神中のそのイメージ。種々のリズムはイメージ多様性および示唆性への注意をどうにか集中して、思考との連合性を内包しない。女流詩人は、関係の神秘主義をあわいに見つけて描きたい、外部ー内部のドラマ、またそれらがオーバーラップすることに映る彼女の感傷的な影に適当な量を見つけること、それは絶対にある場合、彼女は詩の重要な数のなか、そのすべてで何とかしようと述べた。各詩の明瞭な考えおよび内容やアウトラインをもち、かつ各々詩が世界の特別の精神状態および感傷的な感覚のイメージであるため努力する詩人の思考で行っている。ターニャ・テベリャスキーは大気の詩人で、単に視覚的なひとつの形態を作らなかった。これらの詩の人生経験や予想、瞑想は、複雑な感傷的なイメージを作成する必要をもたらす。また十字の小径の意味、ドラマを確認するために、この本の支配的な特性であることを私たちが主張することができたという感覚は、もう一方の端に女流詩人と読者を閉じ。詩的に、多重な個性、世界の懐疑的で重大な感覚の特別な接続によりイメージで作られていた詩の流体および感情それはすべての知的合成に先行するに。
 ターニャ・テベリャスキーにとって全体中の韻文や詩は、いくつかの定数を持つ詩的世界〔対立的で偽る現実の代わり)をつくり、かつ意味の危機で疲弊し落ち着かない短い人命が、方法が意味を持つ方法を見つけるだろうという創造的意図の一部なのだ。少なくとも現在の無意味を実現する際にある新しい感覚の中でなければ。

  Petar V. Arbutina
ガラスの家
書評

「ガラスの家」を日本語に訳しながら思ったことがある。これを単なる愛の悲劇詩と取るべきではない。壊れやすいガラスという材質ではあるものの、愛の居場所である家で、愛を育てるはずであり、明るい光を受けたならば、またなんの外部よりの力が加わらなければ、いつまでも存在はしただろう。そこでは、ガラスの脆弱性を凌駕する愛の強靭性が担保されねばならなかった。この詩人は愛する人に、それを知らせ、互いの力を高めようと訴える。そして一編の長大な詩「ガラスの家」が書かれた。美しくも哀しい愛と、家が壊れても愛は壊れぬ詩の強靭さが読者を魅了する。
すみくらまりこMariko Sumikura




 タチアナ デベリャスキー、196723日ウジツェに生まれる。詩、短編小説、小説、俳句を書いている。セルビア作家協会(UKS)会員。2004年よりセルビア俳句協会(HDS)、モンテネグロ(HUSCF),クロアチア(HDPR)俳句協会に所属。2008年よりベオグラード詩人協会かいいん、2009年よりクロアチア作家協会(HKD)、2011年よりアントン・イワノジッチ詩人協会に所属、2011年より日本の国際俳句協会の会員となる。母国・移住地ユーゴスラビア連合、ベオグラード文学クラブ、2013年インドミラソフ作家クラブ、2014年よりブランコ ミルコビッチ作家協会、2014年日本国際詩人協会「詩の架け橋天橋」会員となる。
 現在まで四冊の詩集を出版「ガラスの家」1996年ウジツェ、「ユアーズ」2003年ベオグラード、俳句集「VOLCANO2004年、CD本「ガラスの家」、2008年セルビア語英語「AH-EH-IH-OH-UH」を出版。
 HIŠA IZ STEKLA はスロベニア語に訳されMalo Misevoで出版、英語にも訳される。A House Made of Glass」が2013、アメリカ Hammer & Anvil Booksより出版。彼女の詩や俳句は89カ国の言語に訳されている。